アポロドーロスではピュグマリオンは「キュプロス人の王」で、その娘メタルメがパポスを建てたキニュラスに嫁ぎ、アドニスらを生んだとされる。彫像の話は出てこない。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃

Πυγμαλίων人間
彫刻家ピュグマリオンと、命を得ていく彫像(後の時代に付けられた名でガラテアと呼ばれる)。ジャン=レオン・ジェロームの作。 『ピュグマリオンとガラテア』 ジャン=レオン・ジェローム 1890年ごろ メトロポリタン美術館Public Domain (The Met Open Access, CC0)
ロンドンの花売り娘が、言葉づかいを仕込まれて、見違えるような淑女になる。ミュージカル映画『マイ・フェア・レディ』のもとになった戯曲の題は『ピグマリオン』という。教育心理学には「ピグマリオン効果」という言葉もある。先生に期待をかけられた生徒は成績が伸びる、とした1968年の研究から広まった名前だ。どちらの名前も、自分の作った女性像に恋をした、キュプロス島の一人の男から来ている。
人の手で理想の女性をつくる話の、おおもとの物語を見ていこう。
語ったのは、ローマの詩人オウィディウスである。キュプロスの男ピュグマリオンは、身を持ち崩した女たちの姿を見て、女性というものに嫌気がさし、妻を持たずに一人で暮らしていた。
そのあいだに、彼は雪のように白い象牙で、一体の女性像を彫り上げる。生身の女には生まれようのない美しさだった。まるで本物の乙女の顔で、生きていて、恥じらいさえなければ動き出しそうに見える。技が技を隠すほどの出来だった。そしてピュグマリオンは、自分の作品に恋をしてしまう。
彼は何度も像に手を触れて、これは体なのか象牙なのかと確かめる。口づけをしては、返してくれているように思い、話しかけ、抱きしめる。強く押したら跡が残るのではないかと心配までした。貝殻やきれいな石、小鳥や色とりどりの花など、娘の喜びそうな贈り物を運び、衣を着せ、指輪をはめ、首飾りをかけてやる。紫の布を敷いた寝台に寝かせ、首を柔らかな羽根の枕にもたせかけた。
やがて、キュプロス島じゅうで祝われる、愛の女神アプロディテの祭りの日が来た。ピュグマリオンは祭壇の前で、おずおずと祈る。神々よ、どうか私に妻を。象牙の乙女を、とは言えず、こう続けた。あの象牙の乙女に似た妻を、と。女神は祈りの本当の意味を察し、祭壇の炎を三度燃え上がらせた。
家に帰ったピュグマリオンは、寝台の像に口づけをした。温かい気がする。もう一度唇を寄せ、胸に手を当てると、象牙は硬さを失い、指の下で柔らかくなった。日の光で溶けて、指先で思いのままに形を変える蜜蝋のように。彼は驚き、喜び、それでもだまされているのではないかと恐れて、何度も確かめる。確かに体だった。指で押すと、血管が脈打っている。
乙女は口づけを感じて頬を染め、おずおずと目を上げて、空の光と恋人の顔を同時に見た。女神は、自分がかなえた結婚に立ち会った。9か月後、二人のあいだには娘が生まれ、その名が島の町パポスの名になったという。
この娘の孫の代から、美少年アドニスの悲しい物語が始まっていく。
ちなみにオウィディウスは、像にも、命を得た女性にも、名前を付けていない。
この物語の出典: オウィディウス『変身物語』、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』、ジョージ・バーナード・ショー『ピグマリオン』、ロバート・ローゼンタール、レノア・ジェイコブソン『教室のピグマリオン』
アポロドーロスではピュグマリオンは「キュプロス人の王」で、その娘メタルメがパポスを建てたキニュラスに嫁ぎ、アドニスらを生んだとされる。彫像の話は出てこない。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
キリスト教の著作家アレクサンドリアのクレメンスは、ヘレニズム期の著述家ピロステパノスを引いて、キュプロスの男(ピュグマリオン)が象牙のアプロディテ像そのものに恋した、という話を伝える。こちらは神像への冒涜の例として持ち出されており、オウィディウスの恋物語とは扱いがまったく違う。
オウィディウスの形: 身を売るようになった女たち(プロポイトスの娘たち)の姿を見て女性を嫌い、独身を通したピュグマリオンは、雪のように白い象牙で生身の女より美しい像を彫り、自分の作品に恋をしてしまう。ウェヌスの祭の日に「象牙の乙女に似た妻を」と控えめに祈ると、帰って像に口づけするうちに象牙が柔らかくなり、温かい体に変わった。
オウィディウス『変身物語』 8年頃
オウィディウスは像にも、命を得た女にも名前を与えていない。二人の間には娘パポスが生まれ、島の町パポスの名の由来とされる。像の名を海のニンフと同じ「ガラテア」とするのは古代より後の作家たちで、いつ誰が始めたかははっきりしない。
オウィディウス『変身物語』 8年頃
オウィディウスでは、ピュグマリオンの話を語るのは妻を失ったオルペウスで、この話のすぐ後に、ピュグマリオンの孫キニュラスとその娘ミュラの話、さらにミュラが生んだアドニスの話が続く。美しい像から生まれた家系が、三代のうちに禁じられた恋の悲劇へと転がっていく構成になっている。
オウィディウス『変身物語』 8年頃
ショーの戯曲『ピグマリオン』(1913年初演)は、音声学者ヒギンズがロンドンの花売り娘イライザの話し方を仕込んで淑女に仕立てる話に置き換えた。これをもとにミュージカル『マイ・フェア・レディ』(1956年、映画化1964年)が作られた。
ジョージ・バーナード・ショー『ピグマリオン』 1913年初演
教育心理学の「ピグマリオン効果」は、教師が期待をかけた生徒は成績が伸びる、とした1968年のローゼンタールとジェイコブソンの研究『教室のピグマリオン』から広まった名前。ただし元の研究には発表直後から方法の欠陥が指摘され、その後のメタ分析では、効果は小さく一時的だとされている。
ロバート・ローゼンタール、レノア・ジェイコブソン『教室のピグマリオン』 1968年
オウィディウスでは、ピュグマリオンは象牙の像に何度も触れて体か象牙かを確かめ、口づけし、話しかけ、押して跡がつくのを恐れ、貝殻や小石や小鳥や花を贈り、衣と指輪と首飾りで飾り、紫の寝台に寝かせる。キュプロスのウェヌスの祭りで「象牙の乙女に似た妻を」と祈ると炎が三度燃え上がり、帰って口づけすると像は温かくなり、象牙は日に溶ける蜜蝋のように柔らかくなって脈打った。乙女は頬を染めて目を上げる。9か月後に娘パポスが生まれた。
オウィディウス『変身物語』 8年頃
10.270-297
ピグマリオン効果(Pygmalion effect)他人から期待をかけられると成果が上がる、とする心理学の用語。1968年にローゼンタールとジェイコブソンが、教師の期待で児童の成績が伸びたとする研究を『教室のピグマリオン』として発表したことで広まった。自分の理想の像に恋し、願いによって像が生きた女性になった彫刻家ピュグマリオン(オウィディウス『変身物語』10.243-297)になぞらえた名。元の研究は方法に批判が多く、その後の追試では効果は小さく一時的とされる。