ギリシャ神話の地図
アガメムノン主人アポロン神アキレウス勇士オデュッセウス送り手カルカス予言者ブリセイス身代わりクリュタイムネストラ正妻
オデュッセウスがクリュセイスを父のもとへ返す場面。港に船が並ぶ。クロード・ロランの作。

クリュセイス

Χρυσηΐς人間

オデュッセウスがクリュセイスを父のもとへ返す場面。港に船が並ぶ。クロード・ロランの作。 『クリュセイスを父に返すオデュッセウス』 クロード・ロラン 1644年ごろ ルーヴル美術館Public domain

『イリアス』は、アキレウスの怒りの物語として知られる。けれども、その怒りの発端をさかのぼると、一人の娘に行き着く。台詞は一つもなく、名前さえ「クリュセスの娘」という呼び名でしかない娘、クリュセイスである。

この娘をめぐって何が起き、どう終わったのか、見ていこう。

クリュセイスの父クリュセスは、トロイア近くの小さな町クリュセで、弓の神アポロンに仕える神官だった。ギリシャ軍がこのあたりを荒らしたとき、娘は捕らえられ、総大将アガメムノンの取り分になった。

父は娘を取り戻しに、ギリシャの陣営へやって来た。手には数えきれないほどの身代金と、黄金の杖に掛けたアポロンの飾り紐。どうか神を敬って、身代金を受け取り、娘を返してほしい。ギリシャの兵たちは口々に、神官を敬って身代金を受け取るべきだと声を上げた。

アガメムノンだけが承知しなかった。二度と船のそばをうろつくな、でなければ神の飾り紐も役に立たないぞ。娘は返さない。故郷の館で機を織り、わしの床に仕えながら年を取るのだ、と老人を追い返した。

老人はおびえ、黙って波の音の響く浜辺を歩いていった。そして人のいないところで、アポロンに祈った。もしこれまでに、あなたの喜ぶ神殿を建て、牛や山羊の脂を焼いて捧げたことがあるなら、どうか私の流した涙を、ギリシャ人にあなたの矢で償わせてください。

アポロンはその祈りを聞いた。怒りに燃えて、弓と矢筒を肩にオリュンポスから下りてくると、その姿は夜のようだった。まず騾馬と犬を、それから人間を射た。9日のあいだ神の矢が陣営に降り注ぎ、火葬の火が絶えることはなかった。

10日目、アキレウスが兵を集めた。予言者が、原因は神官への仕打ちにあると明かす。アガメムノンは激しく怒り、言い放った。自分はこの娘のほうが、故郷の妻よりいい。姿も背丈も、心も手仕事も劣らない。それでも、兵が滅ぶよりはましだから返してやる。ただし、代わりの取り分をよこせ。こうしてアガメムノンは、アキレウスの取り分の娘を取り上げることになり、アキレウスの怒りが始まる。

クリュセイスを父のもとへ送り届けたのは、知将オデュッセウスだった。船はクリュセの港に入り、オデュッセウスは娘を祭壇の前に導いて、父の腕に渡した。父は喜んで娘を受け取った。そして、前にあなたは私の祈りを聞き届けてくださった、今度はギリシャ人から疫病を遠ざけてください、ともう一度祈った。アポロンはその祈りも聞いた。一行は百頭の生贄を捧げ、日が暮れるまで神をたたえる歌を歌った。

『イリアス』で、クリュセイスの話はここで終わる。後の時代の書き手や注釈者は、この娘の本当の名はアスティノメだったと伝えている。

この物語の出典: ホメロス『イリアス』、『『イリアス』古註(スコリア)』、ディクテュス・クレテンシス(偽)『トロイア戦争日誌』

この物語の人々

もっと詳しく

父クリュセスが莫大な身代金と神の飾りを掲げて娘の返還を求めたが、アガメムノンは荒々しく追い返す。クリュセスの祈りを聞いたアポロンが9日間にわたって矢を射かけ、軍を疫病が襲う。『イリアス』はここから始まる。

ホメロス『イリアス』 前8世紀頃

返還を求められたアガメムノンは「彼女のほうが妻クリュタイムネストラより好ましい。器量でも体つきでも心でも劣らない」と公言して拒む。この台詞は、のちに妻に殺されるという結末を知って読むと相当に重い。

ホメロス『イリアス』 前8世紀頃

疫病を止めるため、オデュッセウスが船で父のもとへ送り届け、アポロンに百頭の犠牲を捧げる。この帰還と和解の場面が丁寧に描かれるのに対し、代わりに連れ去られるブリセイスの場面は短い。

ホメロス『イリアス』 前8世紀頃

残り3件を読む

クリュセイスも「クリュセスの娘」という父称形で、本人の名ではない。父の名クリュセスは町の名クリュセに由来する。名前の三段重ね(町→父→娘)がそのまま人物の存在の仕方を示している。

ホメロス『イリアス』 前8世紀頃

「クリュセイス」は「クリュセスの娘」という父称で、本名をアスティノメとする伝承がある。ディクテュスはリュルネソスで捕らえられたクリュセスの娘アスティノメとして語り、『イリアス』の古註も、他の詩人はアスティノメと呼ぶと記す。

『『イリアス』古註(スコリア)』 アレクサンドリア期の学説を伝える写本欄外註、ディクテュス・クレテンシス(偽)『トロイア戦争日誌』 4世紀(ラテン語版)

父クリュセスは、アガメムノンに追い返されると浜辺でアポロンに「私の涙をダナオイ人に矢で償わせてください」と祈り、娘が戻ると同じ呼びかけで「今度は疫病を遠ざけてください」と祈る。どちらの祈りもアポロンは聞き入れた。

ホメロス『イリアス』 前8世紀頃

ほかのつながり(1人)

出来事・場所・物

次に読む

このページの出典(3件)
  1. 前8世紀頃ホメロス『イリアス』
  2. アレクサンドリア期の学説を伝える写本欄外註『『イリアス』古註(スコリア)』
  3. 4世紀(ラテン語版)ディクテュス・クレテンシス(偽)『トロイア戦争日誌』