帰路の嵐を逃れるために「上陸して最初に出迎えた者を犠牲に捧げる」と誓い、出迎えたのが我が子だった——という有名な話はホメロスには無く、後代の注釈に由来する。モーツァルトのオペラ『イドメネオ』はこの筋を使っている。
20年ぶりに故郷の島へ帰った英雄オデュッセウスは、正体を隠すために、何度も作り話をした。そのうち二つに、同じ男の名前が出てくる。一度目は、この男の足の速い息子を殺してクレタから逃げてきたのだ、という嘘。二度目は、自分はこの男の弟だという嘘。
嘘の中で都合よく名前を借りられたのは、それだけ誰もが知る人物だったからだろう。クレタの王イドメネウスである。彼の姿を、トロイア戦争の場面から追ってみよう。
イドメネウスは、迷宮の伝説で知られるクレタ王ミノスの孫だ。「百の町を持つ」と呼ばれたクレタから、80隻の船を率いてトロイアへ出陣した。
『イリアス』のイドメネウスは、年長の武将である。髪にはもう白いものが混じっていた。それでも、老いた将が若者に知恵を授ける役に回るのとは違い、自ら最前線に立って槍を振るう。トロイア勢に押された日、彼は敵の武将を次々に討ち取り、年を取っていても引けは取らない、と言い放った。
総大将アガメムノンも、この王には特別な計らいをしている。宴の席で、ほかの将たちには決まった量の酒が注がれるのに、イドメネウスの杯だけはいつも満たされたままだった。
戦死した英雄パトロクロスを弔う戦車競走では、少し人間くさい姿も見せる。観覧席のいちばん高いところに座っていたイドメネウスは、先頭を走ってくる馬に真っ先に気づき、周りに声をかけた。私だけに見えているのか、と。すると別の武将がからかった。年のわりに口ばかり達者で、目がいいわけでもないだろう、と。イドメネウスは怒り、どちらが正しいか賭けをしようと言い返す。英雄アキレウスが立ち上がって、二人をなだめた。
戦争が終わると、イドメネウスは無事に故郷へ帰った。『オデュッセイア』でギリシャ方の老将は、クレタ勢はイドメネウスに率いられ、戦で生き残った者を一人も海で失わずに帰り着いた、と語っている。多くの将が嵐や裏切りで命を落とした帰り道のなかで、珍しい幸運だった。
ところがローマの詩人ウェルギリウスの『アエネイス』では、話が変わってくる。イドメネウスは父祖の王国から追われて去り、クレタの岸は空っぽになっている、という噂が流れるのだ。やがて彼はイタリアの南の地に落ち着いた、とも語られる。なぜ故郷を追われたのか。その理由として知られる話は後の時代の注釈に由来するもので、下の注釈にまとめてある。
この物語の出典: ホメロス『イリアス』、ホメロス『オデュッセイア』、ウェルギリウス『アエネイス』
この物語の人々
こういう風にも語られている
ローマ以後の語り
『アエネイス』では、イドメネウスが父祖の王国を追われて去り、クレタの岸が空になったという噂が流れ(3巻)、のちにイタリア南部のサレンティニの野を占めたと歌われる。11巻でもディオメデスが、覆されたイドメネウスの家に触れる。
ウェルギリウス『アエネイス』 前19年頃
もっと詳しく
クノッソスやゴルテュンなど「百の都市」を持つクレタから80隻を率いる。副将はメリオネスで、二人で共同の指揮を執る形になっている。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
13巻に長い活躍の場面がある。すでに髪に白いものが混じっているのに前線で戦い、「歳を取っていても引けは取らない」と自ら言う。老齢が助言役に回る『イリアス』の型(ネストル)に対する例外。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
アガメムノンから、他の将が定量を配られる中で一人だけ「杯を満たしたまま」にしておく待遇を受ける。序列が飲み物の注ぎ方で表される場面。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
残り3件を読む
ホメロスでは無事に帰国する。『オデュッセイア』3.191-192 でネストルが「クレタ人はイドメネウスに率いられて、戦で生き残った者は一人も海で失わずに帰った」と語る。
ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃
帰郷したオデュッセウスは作り話の中で、イドメネウスの足の速い息子オルシロコスを殺してクレタから逃げてきたと名乗り(13巻)、またペネロペイアには、デウカリオンの子でイドメネウスの弟アイトンだと名乗る(19巻)。
ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃
パトロクロスの葬礼競技の戦車競走で、見物席の高みに座るイドメネウスが先頭の馬に真っ先に気づくと、小アイアスが年のわりに口ばかり達者だと罵り、イドメネウスは鼎か釜を賭けてアガメムノンに判定させようと言い返す。アキレウスが立ち上がって二人を止めた。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
ほかのつながり(3人)
家族・恋愛
- ヘレネ求婚の相手
3.10.8。ヘレネの求婚者の一人として数えられる
出来事・場所・物
- クノッソス治める土地・民
2.645-652
- ギリシャ勢の帰国(ノストイ)関わった出来事
『オデュッセイア』3.191-192 仲間を一人も失わずクレタに帰る。アポロドロス『摘要』6.9-10 では留守中に王位を奪われていて追い出される
次に読む
このページの出典(4件)
- 前8世紀頃ホメロス『イリアス』
- 前8世紀頃ホメロス『オデュッセイア』
- 前19年頃ウェルギリウス『アエネイス』
- 1〜2世紀頃アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』