冥界の館の門をたたく、酒の神ディオニュソス。英雄ヘラクレスの格好をして「ヘラクレスだ」と名乗ると、門番はいきなりまくしたてた。この恥知らずの悪党め、前にやって来て私の犬のケルベロスを盗んでいったのはお前だな。今度こそ、冥界の川の猟犬どもに腹わたを引き裂かせてやる。紀元前5世紀の喜劇作家アリストパネスの『蛙』の一場面だ。この口やかましい門番は、アイアコスということになっている。
喜劇で門番にされたこの人物は、じつは人間の中でもっとも敬虔だとたたえられた王で、トロイア戦争の英雄アキレウスと、大アイアスの祖父でもあった。
冥界の門を守ることになったアイアコスが、どんな人物として語られてきたのか、見ていこう。
アポロドーロスの神話集によれば、ゼウスは川の神の娘アイギナをさらい、当時オイノネと呼ばれていた島へ連れていって、アイアコスをもうけた。島は、のちに母の名をとってアイギナ島と呼ばれるようになる。
ゼウス(右上の鷲)に見初められた川の神の娘アイギナ。18世紀の油彩。『ユピテルに見初められたアイギナ』 ジャン=バティスト・グルーズ 1767〜69年ごろ メトロポリタン美術館Public Domain (The Met Open Access, CC0)島にいるのは、アイアコスただひとりだった。そこでゼウスは、島の蟻を人間に変えて、彼に民を与えた。オウィディウスの『変身物語』では、女神ヘラの送った疫病で島の民が死に絶え、アイアコスが樫の木を登る蟻の列を見て、この蟻と同じ数の民をくださいと祈ったことになっている。こうして生まれたのが、のちにアキレウスとともにトロイアへ向かうミュルミドン人だ。
雲の中のゼウスに訴えるアイアコスと、人の姿になっていく蟻たち。16世紀の木版画。『ユピテルが蟻をミュルミドン人に変える』 ヴィルギル・ゾーリス 1569年 アムステルダム国立美術館(RP-P-OB-22.080(V))CC0アイアコスが「最も敬虔な人間」と呼ばれたのには、わけがある。あるとき、ギリシャ全土がひどい日照りに見舞われた。ある王が、アルカディアの王をだまし討ちにしてばらばらにした罪のせいだった。神託は告げた。アイアコスが祈ってくれるなら、災いはやむ。旅行家パウサニアスによれば、デルポイの巫女は、祈るのがアイアコスでなければゼウスは耳を貸さない、と答えたという。各地の町から使者がアイギナにやって来た。アイアコスが全ギリシャのゼウスに犠牲を捧げて祈ると、雨が降った。アイギナの人々は、アイアコスの聖域の入口に、このときの使者たちの姿を浮き彫りにして残した。
その公正さは、神々にまで頼りにされた。紀元前5世紀の詩人ピンダロスは、アイアコスを地上でもっとも思慮深い人と呼び、神々の争いにさえ裁きをつけたと書いている。
ピンダロスは、もうひとつ不思議な話を伝えている。海の神ポセイドンとアポロンがトロイアの城壁を築くとき、アイアコスを手伝いに呼んだ。完成したばかりの城壁に、三匹の蛇が飛びかかった。二匹は落ちて死に、三匹目だけが叫び声をあげて中へ跳びこんだ。アポロンはすぐに告げた。英雄よ、トロイアの城は、あなたの手で築いたところから落ちるだろう。それも、あなたの子孫の手で。一代目と三代目で。
家族には悲劇もあった。アイアコスは妻とのあいだにペレウスとテラモンという二人の息子をもうけ、さらに海の女神とのあいだにポコスという息子をもうけた。この女神は、アイアコスから逃れようとアザラシに姿を変えたという。やがて、競技にすぐれたポコスを兄たちが妬み、円盤を投げつけて殺してしまう。アイアコスは二人の息子を島から追放した。
追われたペレウスは海の女神テティスと結ばれてアキレウスの父となり、テラモンは大アイアスの父となった。トロイアは、テラモンがヘラクレスとともに攻めたときにいったん落ち、のちのトロイア戦争で滅びる。アポロンの予言のとおりだった、とピンダロスの詩は読ませる。
死んだあと、アイアコスは冥界の王の館で敬われ、冥界の鍵を預かったという。哲学者プラトンの語る死後の裁きでは、兄弟のミノス、ラダマンテュスとともに死者の裁判官となり、ヨーロッパから来た死者を裁く。オウィディウスの『変身物語』では、孫の大アイアスが胸を張る。私の祖父アイアコスは、岩を押し上げる罰を受けたシシュポスのいる沈黙の国で、法を定めている。そのアイアコスを、ゼウスは自分の子と認めている。だから私は、ゼウスから数えて三代目なのだ、と。
冥界の鍵を預かる者という言い伝えが、喜劇の中では、口やかましい門番の姿になったと読むこともできる。
この物語の出典: ピンダロス『祝勝歌集』、アリストパネス『蛙』、プラトン『ゴルギアス』、オウィディウス『変身物語』、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』、パウサニアス『ギリシア案内記』