アポロドーロスでは、事の次第を知ったデイアネイラは首を吊った。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃

Δηιάνειρα人間
ケンタウロスのネッソスにさらわれるデイアネイラ。グイド・レーニの作。 『デイアネイラの略奪』 グイド・レーニ 1617〜1621年Public domain
ギリシャ最強の英雄ヘラクレスを死なせたのは、怪物でも神でもなかった。夫の心をつなぎとめたいと願った、妻の贈り物である。その妻がデイアネイラだ。
では、英雄の最後の妻デイアネイラが、どうして夫を死なせることになったのか、はじめから見ていこう。
デイアネイラは、カリュドンという町の王の娘である。本当の父は酒の神ディオニュソスだとする言い伝えもある。アポロドーロスによれば、彼女は自ら戦車を駆り、戦いの技を身につけた娘だった。求婚にやって来たヘラクレスには、恐ろしい恋敵がいた。牡牛の姿に変わる川の神である。ヘラクレスは川の神と組み合い、その角を一本へし折って勝ち、デイアネイラを妻にした。
夫婦が旅に出たときのことだ。二人はある川にさしかかった。岸にはケンタウロスが座っていて、神々から渡し守の役を授かったと称し、金を取って旅人を向こう岸へ運んでいた。ヘラクレスは自分で川を渡り、妻をケンタウロスに託した。ところがケンタウロスは、川の途中でデイアネイラに襲いかかる。悲鳴を聞いたヘラクレスは、岸に上がってきたケンタウロスの胸を矢で射抜いた。
死にぎわのケンタウロスは、デイアネイラを呼び寄せてささやいた。ヘラクレスの心をつなぎとめる惚れ薬がほしければ、自分の傷から流れる血を取っておくといい。デイアネイラは言われたとおりにして、それを大事にしまっておいた。だが、ヘラクレスの矢には、かつて退治した水蛇ヒュドラの猛毒が塗ってある。血には、その毒が混じっていた。
年月が過ぎ、ヘラクレスはある町を攻め落とし、その国の王女を捕虜として連れ帰ることになった。神に生贄を捧げるため、ヘラクレスは伝令を家へ送り、晴れ着を取りに来させる。伝令の話から、デイアネイラは若い王女のことを知った。夫が自分よりあの娘を愛するようになるのではないか。恐れたデイアネイラは、あのケンタウロスの血こそ本物の惚れ薬だと信じて、晴れ着に塗って送った。
ヘラクレスは衣をまとい、生贄を捧げはじめた。衣が温まると、ヒュドラの毒が肌を焼きはじめる。怒ったヘラクレスは、衣を届けた伝令の足をつかんで岬から投げ落とし、衣を引きはがそうとした。衣は体に張りつき、肉ごと剥がれた。
何が起きたかを知ったデイアネイラは、自ら命を絶った。アポロドーロスは首を吊ったとし、アテネの悲劇作家ソポクレスの劇では、剣で脇腹を刺して死ぬ。
瀕死のヘラクレスは山の上に薪を積ませ、その上で焼かれて、天へ昇ったと伝えられる。
『イリアス』と『オデュッセイア』には、デイアネイラの名は出てこない。ヘラクレスの死についても、『イリアス』は女神ヘラの怒りに屈した、とだけ語っている。
この物語の出典: ホメロス『イリアス』、ソポクレス『トラキスの女たち』、オウィディウス『変身物語』、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』
アポロドーロスでは、事の次第を知ったデイアネイラは首を吊った。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
ソポクレス『トラキスの女たち』では、両刃の剣で脇腹を刺して死ぬ。
ソポクレス『トラキスの女たち』 前5世紀中頃(上演年不詳)
ヘラクレスは、牡牛の姿になった河神アケロオスと彼女をめぐって組み合い、その角を一本折って勝った。アポロドーロスは、アケロオスがその角をアマルテイアの角(豊穣の角)と交換して取り戻したと付け加える。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
オイカリアを落としたヘラクレスは、生贄のための晴れ着を取りに伝令リカスをトラキスへ送った。リカスからイオレのことを聞いたデイアネイラは、夫の愛を失うことを恐れて衣にネッソスの血を塗る。毒に焼かれたヘラクレスはリカスの足をつかんで岬から投げ落とした。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
ネッソスは神々から渡し守の役を授かったと称してエウエノス川で旅人を運んでいた。ヘラクレスは自分で渡り、デイアネイラをネッソスに託したが、ネッソスは川の途中で彼女を襲い、岸に上がったところを心臓を射抜かれた。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
アポロドーロスは、デイアネイラは母アルタイアがディオニュソスとの間にもうけた子とも言われ、戦車を駆り戦いの技を修めていた、と記す。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
デイアネイラの名はホメロスには出てこない。ヘラクレスの死の経緯そのものも、ホメロスは「ヘラの怒りに屈した」とだけ言う。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
エウエノス川で、渡し守をしていたケンタウロスのネッソスがデイアネイラを運ぶ途中で襲いかかり、ヘラクレスに射殺された。ネッソスは死に際に、自分の血を「ヘラクレスの心をつなぎとめる媚薬」として取っておけと告げた。その血には矢に塗られたヒュドラの毒が混じっていた。
ソポクレス『トラキスの女たち』 前5世紀中頃(上演年不詳)、オウィディウス『変身物語』 8年頃、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
ヘラクレスがオイカリアを落として王女イオレを連れ帰ると知り、デイアネイラは夫の心が移るのを恐れて、ネッソスの血を塗った衣を送った。衣を着て生贄を捧げるうちに毒が体を焼き、肉ごと剥がれた。
ソポクレス『トラキスの女たち』 前5世紀中頃(上演年不詳)、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
アポロドーロスでは、父オイネウスの別の子がテバイ攻めの勇士テュデウスで、その子がトロイア戦争のディオメデス。デイアネイラはディオメデスの叔母にあたる。さらにこのオイネウスは、『イリアス』でディオメデスが語る祖父、かつてベレロポンを20日間もてなした客友でもある。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃