ギリシャ神話の地図
ゼウス娘をさらった神ポセイドン父ディオニュソスひ孫エウロペ娘ミノス孫カドモス息子イオ曾祖母ラダマンテュス孫

アゲノル

Ἀγήνωρ人間

「ヨーロッパ」という名前は、どこから来たのか。紀元前5世紀の歴史家ヘロドトスも、この問いに頭をひねっている。誰が付けた名なのか、分からない。もしかすると、フェニキアの町テュロスの女エウロペから取ったのかもしれない。だがその女はアジアの生まれで、今ギリシャ人がヨーロッパと呼ぶ土地には来ていない。フェニキアからクレタ島へ渡っただけなのだから、と。

そのエウロペの父が、フェニキアの王アゲノルである。ゼウスに娘をさらわれ、息子たちを探しに出した父親だ。テーバイの町を建てたカドモスも、この王の息子だった。

娘と息子たちの陰にいるこの王が、神話の中でどう語られているのか、見ていこう。

アポロドーロスの神話集によれば、アゲノルの家系は、ゼウスに愛されて牝牛に変えられた娘イオにさかのぼる。イオがエジプトで産んだ息子の娘が、リビュエ。アフリカのリビュアという土地の名は、この女から来たという。リビュエは海の神ポセイドンとのあいだに、双子の兄弟を産んだ。そのひとりがアゲノルだった。兄弟はエジプトに残って王となり、その家系からは、五十人の娘をもつダナオスが出る。アゲノルはフェニキアへ移って王となり、そこで大きな一族の祖となった。

アゲノルは妻とのあいだに、娘エウロペと、カドモス、ポイニクス、キリクスの三人の息子をもうけた。ある日、娘が姿を消す。ゼウスがおとなしい牡牛に化け、背中に乗せて海を渡り、クレタ島へ連れ去ったのだった。

何が起きたのかを知らない父は、息子たちに命じた。エウロペを見つけるまで帰ってくるな。ローマの詩人オウィディウスは、見つけられなければ追放だと言い渡したこの父を、ひとつの行いで、娘思いであり、同時にむごくもあった、と評している。ゼウスの隠しごとを、人間が見つけられるはずもなかった。

白い牡牛に化けたゼウスに、海の上へ連れ去られるエウロペ。ティツィアーノの絵(16世紀)。
白い牡牛に化けたゼウスに、海の上へ連れ去られるエウロペ。ティツィアーノの絵(16世紀)。『エウロペの略奪』 ティツィアーノ 1559〜1562年 イザベラ・スチュワート・ガードナー美術館Public domain

息子たちは母を連れて旅に出た。しかしどれほど探しても、エウロペは見つからない。帰ることをあきらめた彼らは、それぞれの土地に住みついた。ポイニクスはフェニキアに、キリクスはフェニキアに近い川のほとりに住み、その地をキリキアと名づけた。ヘロドトスも、キリキアの人々の名はアゲノルの子キリクスから来ている、と書いている。ヒュギヌスの神話集では、ポイニクスはアフリカへ渡ってそこにとどまり、そのためアフリカの人々はポエニ人(フェニキア人)と呼ばれるのだという。

探索の旅は、エーゲ海の島々にも跡を残した。旅行家パウサニアスによれば、トラキア沖のタソス島の人々は、もとはフェニキアのテュロスから、アゲノルの子タソスとともにエウロペを探しに船出してきた者たちだった。ヘロドトスは、カドモスがエウロペを探す途中でエーゲ海のテラ島に立ち寄り、身内の者を残していったと伝える。カドモス自身は、ギリシャのデルポイで神託を受け、牝牛のあとについて行って、テーバイを建てた。

アゲノルの子孫からは、さらに名高い人々が出た。エウロペがクレタで産んだ息子は、迷宮の怪物で知られる王ミノス。カドモスの娘セメレは、酒の神ディオニュソスの母になる。つまりディオニュソスは、アゲノルのひ孫にあたる。

父の命で妹を探す旅に出て、ついにテーバイの町を建てるカドモス。16世紀の版画。
父の命で妹を探す旅に出て、ついにテーバイの町を建てるカドモス。16世紀の版画。『テーバイを建てるカドモス』 カドモス物語の画家 1543〜1544年ごろ メトロポリタン美術館Public Domain (The Met Open Access, CC0)

伝えは一つではない。ホメロスの『イリアス』では、ゼウスがエウロペを「名高いポイニクスの娘」と呼んでいて、アゲノルの名は出てこない。アポロドーロスも、エウロペはアゲノルではなくポイニクスの娘だという説があると書き添えている。どちらの伝えでも、エウロペの家は、フェニキアという土地の名と深く結びついていた。

この物語の出典: ホメロス『イリアス』、ヘロドトス『歴史』、オウィディウス『変身物語』、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』、ヒュギヌス『神話集(ファブラエ)』、パウサニアス『ギリシア案内記』

この物語の人々

こういう風にも語られている

『イリアス』で、ゼウスはエウロペを「名高いポイニクスの娘」と呼び、ミノスとラダマンテュスを産んだ女として挙げる。ホメロスには、エウロペの父としてのアゲノルは出てこない。アポロドーロスも、エウロペはアゲノルではなくポイニクスの娘だという説を併記する。

ホメロス『イリアス』 前8世紀頃、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃

ローマ以後の語り

アポロドーロスでは、イオの子エパポスの娘リビュエ(リビュアの地名の由来)が、ポセイドンとのあいだに双子のアゲノルとベロスを産む。アゲノルはフェニキアへ行って王となり、大きな一族の祖となった。ベロスはエジプトに残って王となり、アイギュプトスとダナオスの父となる。ヒュギヌスも、ポセイドンの子としてリビュエから生まれたアゲノルとベロスを挙げる。

アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃、ヒュギヌス『神話集(ファブラエ)』 1〜2世紀頃

アポロドーロスでは、アゲノルはフェニキアでテレパッサを妻とし、娘エウロペと、カドモス、ポイニクス、キリクスの三人の息子をもうける。ヒュギヌスでは、エウロペはシドンの人アゲノルとアルギオペの娘で、ゼウスは牡牛に化けて彼女をシドンからクレタへ運ぶ。

アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃、ヒュギヌス『神話集(ファブラエ)』 1〜2世紀頃

エウロペが消えると、アゲノルは息子たちに、見つけるまで帰ってくるなと命じて探しに出す。母テレパッサと、タソス(ポセイドンの子、ペレキュデスではキリクスの子)も同行した(アポロドーロス)。オウィディウスは、見つけられなければ追放すると言い渡した父を「同じひとつの行いで、敬虔にして非道」と評する。

オウィディウス『変身物語』 8年頃、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃

ウェルギリウス『アエネイス』では、女神ウェヌスがカルタゴを「テュロスの人々の、アゲノルの町」と呼ぶ。フェニキアのテュロスから来た女王ディドの国を、アゲノルの名で言い表したもの。

ウェルギリウス『アエネイス』 前19年頃

もっと詳しく

探しあぐねた息子たちは帰郷をあきらめて各地に住みつく。アポロドーロスでは、ポイニクスはフェニキアに、キリクスはフェニキア近くのピュラモス川のほとりに住んでその地をキリキアと名づけ、カドモスとテレパッサはトラキアに、タソスはトラキア沖の島にタソスの町を建てた。ヘロドトスも、キリキア人はもとヒュパカイオイと呼ばれ、フェニキア人でアゲノルの子キリクスから名を取ったと書く。ヒュギヌスでは、ポイニクスはアフリカへ渡ってとどまり、そのためアフリカの人々がポエニ(フェニキア人)と呼ばれるという。

ヘロドトス『歴史』 前430年頃、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃、ヒュギヌス『神話集(ファブラエ)』 1〜2世紀頃

パウサニアスによれば、タソス島の人々はフェニキアのテュロスから、アゲノルの子タソスとともにエウロペを探して船出した者たちの子孫で、オリュンピアに青銅のヘラクレス像を奉納した。ヘロドトスは、エウロペを探して航海したフェニキア人がタソスに住みつき、ヘラクレスの神殿を建てたと記す。また、カドモスは探索の途中でテラ島に立ち寄り、身内のメンブリアロスとフェニキア人たちを残したという。

ヘロドトス『歴史』 前430年頃、パウサニアス『ギリシア案内記』 2世紀

ヘロドトスは、ヨーロッパという地名を誰がどこから付けたのか分からないとし、テュロスのエウロペから取ったのかもしれないが、彼女はアジアの生まれで、フェニキアからクレタ、さらにリュキアへ行っただけで、ギリシャ人がヨーロッパと呼ぶ土地には来ていない、と疑う。ヘロドトスは歴史の冒頭で、エウロペを「テュロスの王の娘」として、ギリシャ人(おそらくクレタ人)にさらわれたとするペルシア人の話も伝える。

ヘロドトス『歴史』 前430年頃

アゲノルという名の人物は神話に何人もいる。よく知られるのは、『イリアス』でアキレウスに立ち向かい、アポロンに霧に包まれて救われるトロイア方の戦士アゲノル(アンテノルの子)。ほかにもアポロドーロスには、アルゴスの王家やアイトリアの王家のアゲノル、予言者ピネウスの父とする説のアゲノルなどが出てくる。

ホメロス『イリアス』 前8世紀頃、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃、ヒュギヌス『神話集(ファブラエ)』 1〜2世紀頃

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このページの出典(7件)
  1. 前8世紀頃ホメロス『イリアス』
  2. 前430年頃ヘロドトス『歴史』
  3. 前19年頃ウェルギリウス『アエネイス』
  4. 8年頃オウィディウス『変身物語』
  5. 1〜2世紀頃アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』
  6. 1〜2世紀頃ヒュギヌス『神話集(ファブラエ)』
  7. 2世紀パウサニアス『ギリシア案内記』