神になった経緯はホメロスの外にある。オウィディウス『変身物語』では、ヘラの怒りで狂った夫アタマスから逃れ、子メリケルテスを抱いて断崖から身を投げ、ウェヌスの願いで二人ともレウコテアとパライモンという海神になったと語られる。
オウィディウス『変身物語』 8年頃
Ἰνώ神
オデュッセウスの漂流12 / 14カリュプソへ戻るパイエケス人へ進む
嵐の海で、英雄オデュッセウスの筏が波にもまれていた。海の神ポセイドンの怒りである。もう沈むしかない、というそのとき、一羽の海鳥のような姿の女神が波間から舞い上がり、筏の上にとまった。
女神はオデュッセウスに一枚の頭巾を差し出す。この女神レウコテアは、もとは人間の娘イノだった。人間が海の女神になるまでに、何があったのか。その話を見ていこう。
『オデュッセイア』の女神は語りかける。かわいそうに、ポセイドンはなぜそこまであなたを憎むのか。それでも、あの神にあなたを滅ぼすことはできまい。着ている衣を脱ぎ、筏は風に任せて捨て、泳いで、船乗りの民が住む島の岸を目指しなさい。この不死の頭巾を胸の下に巻いておけば、死ぬ心配も、ひどい目にあう心配もいらない。陸に手が届いたら、頭巾はほどいて、遠く沖へ投げ返し、自分は振り返らずに立ち去りなさい、と。そう言うと、女神はまた海鳥の姿で、黒い波の下へ消えた。

用心深いオデュッセウスは、すぐには信じなかった。また神にだまされるのかもしれない。筏がもつかぎりは乗っていよう。ところが大波が筏を打ち砕く。そこでようやく衣を脱ぎ、頭巾を胸に巻いて海へ飛び込んだ。2日2晩、波に漂い、3日目に川の河口へたどり着く。陸に上がると、言われたとおり頭巾を川へ投げ返した。
『オデュッセイア』はこの女神を、テーバイを建てた英雄の娘イノだと紹介する。もとは言葉を話す人間だったが、いまは海の底で神々の誉れを分け持っている、と。
どうして人間の娘が海の女神になったのか。後の神話集はこう語る。イノの姉妹の一人は、ゼウスの子を身ごもったまま、雷の炎に焼かれて死んだ。ゼウスが救い出したその子が、のちの酒の神ディオニュソスである。赤ん坊は、イノと夫の王のもとに預けられ、女の子として育てられた。
夫の浮気の相手の子を育てていると知って、女神ヘラは怒った。ヘラは夫婦を狂わせる。夫は上の息子を鹿と思い込んで狩り殺し、イノは下の息子を煮えたぎる大釜に投げ込み、その亡骸を抱いたまま海へ身を投げる。
海に消えた母と子は、神になった。母はレウコテア、子はパライモンと呼ばれ、嵐にあう船乗りを助ける神になった。ローマの詩人オウィディウスは、愛の女神ウェヌスが海の神に願って二人を神々の仲間に加えてもらった、と語っている。
このイノには、もう一つの顔がある。夫の先妻の子どもたちの命を奪おうと企んだ、継母としての顔だ。その企みから、金の羊毛を持つ空飛ぶ牡羊の話が生まれていく。
この物語の出典: ホメロス『オデュッセイア』、オウィディウス『変身物語』、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』
神になった経緯はホメロスの外にある。オウィディウス『変身物語』では、ヘラの怒りで狂った夫アタマスから逃れ、子メリケルテスを抱いて断崖から身を投げ、ウェヌスの願いで二人ともレウコテアとパライモンという海神になったと語られる。
オウィディウス『変身物語』 8年頃
アポロドーロスでは、ディオニュソスを女の子として育てたイノとアタマスをヘラが狂わせ、アタマスは長男レアルコスを鹿として狩り殺し、イノは次男メリケルテスを煮えたぎる大釜に投げ込んで、その亡骸を抱いて海へ飛び込んだ。イノはレウコテア、子はパライモンと呼ばれ、嵐にあう船乗りを助ける。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
ホメロスは「もとは人間の言葉を話す者だったが、今は海の深みで神々の分け前にあずかっている」と紹介する。人間から神になった例として『オデュッセイア』で明示される数少ない存在。
ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃
筏を捨て、衣を脱ぎ、この不死の頭巾を胸の下に巻けと教える。陸に着いたら振り返らずに海へ投げ返せという条件が付く。オデュッセウスは神の言葉をすぐには信じず、筏が砕けるまで従わない。
ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃
授けられた品は κρήδεμνον(クレデムノン)、既婚女性が頭にかぶる被り物である。武具でも霊薬でもなく女性の装身具が救命具になる点が独特。
ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃
頭巾を巻いて2日2晩漂い、3日目にスケリエの川の河口にたどり着く。パイエケス人の地への到着はこの救いによる。
ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃
ホメロスでは、レウコテアはオデュッセウスを哀れんで、海鳥(アイテュイア)に似た姿で海から舞い上がって筏にとまり、頭巾を授けると、また海鳥の姿で波の下へ消えた。
ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃