獲物を逃さない犬と、まっすぐ飛ぶ投げ槍は、クレタ王ミノスからの贈り物。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃

Πρόκρις人間
ケパロスとプロクリス。ホットフリート・スハルケンの作。 『ケパロスとプロクリス』 ホットフリート・スハルケン 1680年代 メトロポリタン美術館Public Domain (The Met Open Access, CC0)
狩りで汗をかいた男は、森の木陰で、いつも同じ言葉を口ずさんだ。そよ風よ、来ておくれ。私の胸に入って、この暑さを冷ましておくれ。お前こそ私の喜びだ。ところが「そよ風」を表すその言葉は、女の名前にも聞こえた。これを聞いた誰かが、夫がそういう名の娘に恋をしている、と妻に告げ口した。この誤解が、ひとりの妻の命を奪う。
その妻がプロクリスである。
では、互いを試し合い、傷つけ合った夫婦の物語を、ローマの詩人オウィディウスの語りでたどってみよう。
プロクリスは、アテネの王の娘だった。夫は狩人ケパロス。結婚してまだ2か月、ケパロスが山で鹿の網を張っていると、曙の女神に見初められて、無理やりさらわれてしまう。ケパロスは女神のもとでも、プロクリスのことばかり口にした。女神は怒って彼を帰したが、言い捨てた。いずれ、あの妻を持ったことを悔やむだろう。
帰る道すがら、ケパロスの胸に疑いが芽生えた。自分がいないあいだ、妻は操を守っていただろうか。彼は女神の力で姿を変え、見知らぬ男として家に入り込み、妻を口説いてみることにした。プロクリスは夫を失って悲しみに沈み、何度言い寄られても、私はただ一人の人のためにいる、とはねつけた。ところが男が贈り物を重ねると、とうとう心が揺れた。その瞬間、ケパロスは正体を明かした。不実な妻め、私がその証人だ。
プロクリスは一言も言わず、恥じて家を出た。男というものすべてを憎み、山にこもって、狩りの女神アルテミスのもとで狩りをして暮らした。ケパロスは後悔して許しを請い、同じだけの贈り物をされたら自分も負けていただろう、と認めた。プロクリスは戻り、二人は仲むつまじく暮らすようになった。
プロクリスは夫に贈り物をした。女神アルテミスから授かった、どんな獣より速く走る猟犬と、狙ったものを外さない投げ槍である。猟犬はのちに、誰にも捕まえられない狐を追いかけるうち、狐もろとも石に変わってしまった。
投げ槍のほうが、悲劇を生んだ。あの「そよ風」の告げ口を聞いたプロクリスは、倒れるほど悲しんだ。それでも、自分の目で見るまでは夫を責めまいと心に決め、翌朝、夫が狩りに出ると、森の茂みにそっと身を隠した。そよ風よ、来ておくれ、といつものように言った夫の耳に、茂みの中のかすかなうめき声と、葉の揺れる音が届いた。獣だと思ったケパロスは、あの投げ槍を放った。
槍はプロクリスの胸を貫いた。駆け寄った夫の腕の中で、彼女は息も絶え絶えに頼んだ。お願い、あの風の名の女を、私たちの寝床に入れないで。ケパロスは、それがただの風の呼び名だったと教えた。プロクリスは、夫の顔を見つめたまま、安心したような顔で息を引き取った。

アポロドーロスの伝える話は、まったく違う。そこでは、プロクリスは黄金の冠と引き換えに別の男に身を任せ、夫に知られてクレタ王ミノスのもとへ逃げ、犬と投げ槍はミノスからもらったものだった。そして最期も、嫉妬とは関係のない狩りの事故として語られている。
この物語の出典: ホメロス『オデュッセイア』、オウィディウス『変身物語』、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』
獲物を逃さない犬と、まっすぐ飛ぶ投げ槍は、クレタ王ミノスからの贈り物。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
オウィディウスでは、犬はディアナ(アルテミス)がプロクリスに授けたもの。夫の試しに傷ついて家を出たプロクリスが、女神に従って狩りをしていたことと結びついている。
オウィディウス『変身物語』 8年頃
アポロドーロスでは、プロクリスはプテレオンから金の冠を受け取って身を任せ、夫ケパロスに知られてミノスのもとへ逃げた。ミノスはパシパエに呪いをかけられていて、交わる女は体から獣が出て死ぬ身だったが、プロクリスはキルケの薬草を飲ませて害を防ぎ、代わりに犬と投げ槍を得た。のちパシパエを恐れてアテナイに戻り、夫と和解した。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
オウィディウスでは、夫がそよ風(アウラ)に呼びかける言葉を女の名と誤解したプロクリスが、確かめようと茂みに隠れ、物音を獣と思った夫の槍に貫かれた。死の間際に誤解だったと知る。
オウィディウス『変身物語』 8年頃
アポロドーロスでは、夫と和解したプロクリスが狩りに同行し、茂みで獲物を追っていたところを、夫が知らずに投げた槍に当たって死ぬ。嫉妬の話はなく、事故として語られる。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
オウィディウスでは、曙の女神にさらわれて戻ったケパロスが妻の貞節を疑い、姿を変えて贈り物で誘惑し、プロクリスが迷った瞬間に正体を明かす。プロクリスは恥じて家を出てディアナのもとで狩りをし、ケパロスが非を認めて和解する。
オウィディウス『変身物語』 8年頃
プロクリスが夫に贈った犬は、テーバイを荒らす捕まらない狐を追ううち、狐とともに大理石に変えられた。
オウィディウス『変身物語』 8年頃
ホメロスでは、オデュッセウスが冥界で見た女たちの一人として、パイドラ、アリアドネと並んで名が出るだけ。
ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃
おおいぬ座・シリウス / Canis Major, Sirius夜空でいちばん明るい恒星シリウスを持つおおいぬ座の犬は、どんな獲物も逃さない犬だった。ローマ時代のヒュギヌスの『天文譜』によれば、この犬はもともとゼウスがエウロペの番犬に付けたもので、やがてクレタ王ミノスのもとに来た。ミノスの病を治したお礼に、狩りの好きなプロクリスがこの犬を贈られ、彼女の死後は夫のケパロスが連れ歩いた。ところがテーバイには、どんな犬からも逃げおおせる狐がいた。絶対に捕まえる犬と、絶対に捕まらない狐が出会ってしまい、どうしていいか分からなくなったゼウスは、両方を石に変えたという。同じ本は、狩人オリオンの犬だとする説も紹介している。シリウスの名はギリシャ語で「焼き焦がすもの」の意味と言われ、語源辞典によれば、夏の暑さと結びつけられたのは、夜明け前にこの星が昇ってくる時期が真夏にあたったからである。英語で真夏のうだるような時期を dog days(犬の日々)と呼ぶのも、このためだ。こいぬ座の明るい星プロキオンは、ギリシャ語で「犬の前」の意味で、シリウスより少し先に昇ってくることからの名である。