『オデュッセイア』で英雄オデュッセウスが冥界を訪れたとき、死んだ女たちの霊が次々に現れる。その中に、夫の命と引き換えに黄金を受け取った憎むべき女、とだけ紹介される霊がいる。エリピュレである。
では、この女がなぜ夫を売ったと言われるのか、見ていこう。
エリピュレは、アルゴスの王アドラストスの姉妹で、予言者アンピアラオスの妻だった。この結婚には事情があった。かつて夫と兄は激しく争い、和解のしるしとして彼女が嫁いだのである。アポロドーロスによれば、夫はそのとき、これから先アドラストスと意見が分かれたら、妻の裁定に従うと誓っていた。
やがて、テバイを攻める七人の将の戦が持ち上がる。国を追われたテバイの王子ポリュネイケスが、アドラストスの娘婿となり、祖国の王座を取り戻そうとしていたのだ。アンピアラオスは予言者として、この戦に出れば王を除く全員が死ぬと見抜き、出陣を拒んだ。王と予言者の意見が割れた。裁くのは、エリピュレである。
夫は妻に、ポリュネイケスからは何も受け取るなと言い含めていた。けれどもポリュネイケスは、彼女に黄金の首飾りを差し出した。テバイの町を開いた王が、神々の祝う婚礼で妻に贈った、王家に伝わる首飾りだった。エリピュレはそれを受け取り、夫に出陣を命じた。
逆らえなかったアンピアラオスは、幼い息子たちに言い残して出陣した。大きくなったら母を殺し、テバイを攻めよ、と。予言どおり戦は敗れ、アンピアラオスは逃げる途中、ゼウスの雷が裂いた大地に戦車ごと呑み込まれて消えた。
10年後、戦死した将たちの息子たちが、ふたたびテバイを攻めた。このときエリピュレは、ポリュネイケスの息子から、今度は同じ王家に伝わる衣を受け取り、自分の息子たちも戦に送り出した。
戦に勝って帰った長男は、母が自分の身まで売ったことを知った。そして神託に従い、父の遺言どおり母を殺した。母殺しの罪で、彼はその後、復讐の女神に追われてさまよい続ける。
古代の旅行家パウサニアスは、オリュンピアに奉納されていた古い箱の浮き彫りに、首飾りを手にしたエリピュレと、幼い息子たちの姿が彫られていたと書き残している。
この物語の出典: ホメロス『オデュッセイア』、ピンダロス『祝勝歌集』、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』、パウサニアス『ギリシア案内記』