舞台のトリナキエ島は、後代にシチリア島と同一視されるようになるが、ホメロスは場所を特定していない。トゥキュディデスはシチリアの古名をトリナクリアとし、ストラボンは「シチリアは三角形なので初めトリナクリアと呼ばれ、のちに響きのよいトリナキスに変わった」と書く。つまり実在の地名の方が先にあり、ホメロスの島の名がそれに引き寄せられた可能性が高い。
ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃、トゥキュディデス『戦史(ペロポネソス戦争史)』 前5世紀末、ストラボン『地理誌』 1世紀初頭
Ἠελίοιο βόες出来事
オデュッセウスの漂流10 / 14スキュラへ戻るカリュプソへ進む
剥いだ牛の皮が、地面を這いまわった。串に刺した肉は、焼けたものも生のものも、牛の声で鳴いた。英雄オデュッセウスの仲間たちが、決して手を出してはならない太陽神の牛を食べたとき、神々はそんな不吉なしるしを見せた。
では、オデュッセウスが仲間を一人残らず失うことになったこの事件を、『オデュッセイア』に沿って順に見ていこう。
帰り道の途中、オデュッセウスは二度も警告を受けていた。一度目は、冥界で会った予言者テイレシアスの霊から。二度目は、魔女キルケから。やがてある島に着くだろう。そこでは太陽神ヘリオスの牛と羊が、七つの群れに50頭ずつ草を食んでいる。この牛は子を産むこともなく、死ぬこともない。太陽神の二人の娘が番をしている。この牛に手を出さなければ、苦労はしても故郷に帰れる。手を出せば、船も仲間も滅びる。
怪物スキュラの海峡を抜けて、一行は疲れきってその島の前にたどり着いた。オデュッセウスは、この島は素通りしようと言った。ところが仲間のエウリュロコスが逆らう。あなたは鉄でできているのか。夜の海は危ない。今夜は岸で休ませてくれ。ほかの仲間たちも同意し、オデュッセウスは折れた。ただし全員に誓わせた。どんなに腹が減っても、牛と羊には決して手を出さない、と。
ところが、南風と東風がまるひと月吹き続け、船を出せなくなった。船にあった穀物と酒がなくなると、仲間たちは魚や鳥を釣って飢えをしのいだ。
オデュッセウスが一人で島の奥へ祈りに行くと、神々は彼を眠らせた。そのあいだに、エウリュロコスが仲間たちに語りかける。どんな死に方もつらいが、飢えて死ぬのがいちばんみじめだ。太陽神の牛の一番いいものを捧げて、神々の機嫌を取ろう。故郷に帰ったら、立派な神殿を建てればいい。それでも神が怒って船を沈めるというなら、飢えてじわじわ死ぬより、海で一気に死ぬほうがましだ。
仲間たちは牛を追い込み、屠った。神に捧げるための大麦がないので樫の若葉を使い、酒の代わりに水を注いだ。

目を覚ましたオデュッセウスが船に戻ると、焼いた肉の匂いが漂ってきた。そのころ、番をしていた太陽神の娘が、父のもとへ知らせに走っていた。怒ったヘリオスは神々に訴えた。この仕打ちの償いをさせてくれないなら、私は冥界に下りて、死者たちを照らすことにする。ゼウスは答えた。お前はこれまでどおり、神々と人間を照らしていればよい。あの者たちの船は、私が雷で打ち砕こう。
不吉なしるしが続くなか、仲間たちは6日間、牛を食べ続けた。7日目に風がやむと、一行は船を出した。島が見えなくなり、空と海しか見えなくなったとき、ゼウスは船の上に黒い雲をかけ、西風の嵐を送り、船に雷を落とした。仲間たちは海に投げ出され、波にもまれるカモメのように漂い、二度と帰らなかった。
生き残ったのは、牛を口にしなかったオデュッセウスただ一人だった。『オデュッセイア』は、その冒頭から、仲間たちが帰れなかったのは自分たちの愚かさで太陽神の牛を食べたからだ、と告げている。
この物語の出典: ホメロス『オデュッセイア』
舞台のトリナキエ島は、後代にシチリア島と同一視されるようになるが、ホメロスは場所を特定していない。トゥキュディデスはシチリアの古名をトリナクリアとし、ストラボンは「シチリアは三角形なので初めトリナクリアと呼ばれ、のちに響きのよいトリナキスに変わった」と書く。つまり実在の地名の方が先にあり、ホメロスの島の名がそれに引き寄せられた可能性が高い。
ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃、トゥキュディデス『戦史(ペロポネソス戦争史)』 前5世紀末、ストラボン『地理誌』 1世紀初頭
この事件は『オデュッセイア』の冒頭6〜9行で先取りされる。仲間たちは「自らの無思慮によって」太陽神の牛を食らい、帰郷の日を奪われたと語られ、物語全体の主題が最初に提示される。
ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃
テイレシアスとキルケの両方から警告される。牛は7つの群れ50頭ずつ、羊も7つの群れ50頭ずつで、生まれも死にもせず、ヘリオスとネアイラの娘パエトゥサとランペティエが番をしている。
ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃
オデュッセウスは島に上陸しないよう主張するが、エウリュロコスが疲れた仲間を代弁して上陸を押し通す。牛に手を出さぬと全員に誓わせて上陸したが、逆風で1か月足止めされ、食糧が尽きる。
ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃
オデュッセウスが祈りに出て眠らされた隙に、エウリュロコスが「飢え死によりは牛を食って死ぬほうがよい」と説き、牛が屠られる。大麦も葡萄酒もないため、樫の葉と水で代用した犠牲となる。
ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃
神々は6日間にわたって不吉な徴を見せる。剥いだ皮が這い、串に刺した肉が生でも焼けても牛の声で鳴いたと語られる。
ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃
ヘリオスがゼウスに罰を求め、応じなければ冥界に降りて死者を照らすと脅す。ゼウスは出航後の船に雷を落とし、オデュッセウス一人を残して全員が海に沈む。
ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃
エウリュロコスは上陸を求めて「あなたは鉄でできているのか」とオデュッセウスをなじる。牛を屠るときには、飢え死にはどの死よりみじめだ、牛を捧げて故郷に帰ったらヘリオスに神殿を建てよう、それでも神が怒るなら海で一気に死ぬほうがよい、と説いた。
ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃
7日目に出航し陸が見えなくなると、ゼウスは黒雲をかけ西風の嵐と雷を送り、仲間たちは海に落ちてカモメのように波間に漂い、帰郷の日を奪われた。
ホメロス『オデュッセイア』 前8世紀頃