『神統記』では、ヒュペリオンの妻テイアが偉大なヘリオス、輝くセレネ、エオスを産む。『ヘリオス讃歌』では母の名がエウリュパエッサになるが、三きょうだいの顔ぶれは同じ。
ヘシオドス『神統記』 前700年頃、作者不詳『ホメロス風讃歌』 前7〜6世紀頃

Σελήνη神
三日月とともに夜空を渡る月の女神セレネ。 『セレネ』 アルベール・オーブレ 1880年Public domain
元素のセレンは、ギリシャ語の「月」から名づけられた。その月そのものを女神にしたのが、セレネである。
『神統記』によれば、セレネは太陽神ヘリオスや朝焼けの女神エオスと、同じ親から生まれたきょうだいだった。太陽と月と暁が、一つの家族にまとめられている。
神々をたたえる古代の詩『セレネ讃歌』は、女神が夜空に現れる様子をこう描く。まず世界の果てを流れる大河オケアノスの水で、美しい体を洗う。輝く衣をまとい、長いたてがみの馬に引かせた車を、夕暮れから全速で走らせる。女神の頭からあふれる光が天から地上を包み、それまで暗かった大気が、金の冠の光で輝きはじめる。月の半ば、つまり満月の夜に、その光はいちばん強くなる。人間にとっては、それが時を知る確かなしるしだった。讃歌はさらに、セレネがゼウスと結ばれ、神々の中でもとりわけ美しい娘を産んだとも伝えている。
セレネの名がいちばんよく知られているのは、一つの恋の物語である。
相手は、並外れて美しい若者エンデュミオンだった。アポロドーロスによれば、月の女神はこの若者に恋をした。するとゼウスが、望むものを何でも選ばせてやると言った。若者が選んだのは、死ぬことも年を取ることもないまま、永遠に眠り続けることだった。

後の時代の詩人たちは、エンデュミオンが眠る場所を、今のトルコにある山の洞窟とした。月の女神がその洞窟へさまよい出て、若者に焦がれる姿が描かれるようになる。古代の旅行家パウサニアスは、月が彼とのあいだに50人の娘を産んだという言い伝えも書き留めている。ただし彼自身は、若者が人間の妻をめとったという話のほうがもっともらしい、と冷静に付け加えた。

ローマの詩人ウェルギリウスは、別の相手の名を挙げる。牧畜の神パンが、雪のように白い羊毛を贈り物にして月の女神をだまし、森の奥へ誘い出した。女神は、その誘いを拒まなかったという。
これほど詩人たちに描かれた女神なのに、『イリアス』や『オデュッセイア』に出てくる「月」は、夜空に浮かぶ天体でしかない。
この物語の出典: ホメロス『イリアス』、ヘシオドス『神統記』、作者不詳『ホメロス風讃歌』、アポロニオス・ロディオス『アルゴナウティカ』、ウェルギリウス『農耕詩』、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』、パウサニアス『ギリシア案内記』、ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』
『神統記』では、ヒュペリオンの妻テイアが偉大なヘリオス、輝くセレネ、エオスを産む。『ヘリオス讃歌』では母の名がエウリュパエッサになるが、三きょうだいの顔ぶれは同じ。
ヘシオドス『神統記』 前700年頃、作者不詳『ホメロス風讃歌』 前7〜6世紀頃
『ヘルメス讃歌』には、夜明け前に物見の場所に昇った「メガメデスの子パラスの娘」セレネという言い方があり、ヘシオドスとは違う父の名が出てくる。
作者不詳『ホメロス風讃歌』 前7〜6世紀頃
アポロドロスでは、月(セレネ)が美青年エンデュミオンに恋し、ゼウスが彼に望みをかなえると言うと、エンデュミオンは不死で年を取らないまま永遠に眠り続けることを選ぶ。パウサニアスは、月がエンデュミオンとのあいだに五十人の娘を産んだという伝えも記録しているが、彼自身はエンデュミオンが人間の妻を娶ったという説のほうを「もっともらしい」とする。
アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃、パウサニアス『ギリシア案内記』 2世紀
元素セレン(selenium)は、1818年にベルセリウスがギリシャ語の selēnē(月)から名づけた。先に見つかっていた、地球にちなんで名づけられたテルル(tellurium)と取り違えられていたため、対になる「月」の名を選んだ。
ダグラス・ハーパー『オンライン語源辞典』 2001年〜(2026年9月閲覧)
ウェルギリウスによれば、アルカディアの神パンが雪のように白い羊毛を贈り物にして月の女神をだまし、森の奥へ誘った。女神はその誘いを拒まなかった。
ウェルギリウス『農耕詩』 前29年頃
『ホメロス風讃歌』の「セレネ讃歌」は、オケアノスの水で身を洗ったセレネが、月の半ばの夕刻に長いたてがみの馬を駆り、満ちた光で人間に時のしるしを与える姿を歌う。ゼウスとのあいだに娘パンディアを産んだとも語る。
作者不詳『ホメロス風讃歌』 前7〜6世紀頃
ホメロスで σελήνη は夜空の「月」として出てくるだけで、名のある女神として何かをする場面はない。月が女神として系譜に組み込まれるのはヘシオドスと讃歌から。
ホメロス『イリアス』 前8世紀頃
『神統記』371-374、アポロドロス 1.2.2
セレン / selenium元素セレン(selenium)は1818年にスウェーデンの化学者ベルセリウスが、ギリシャ語 selēnē(月)から名づけた。最初は、地球にちなんで名づけられていたテルル(tellurium)と取り違えられていたため、地球に対して月の名を選んだ。語尾は -ium だが金属ではない。