母には何に見えたか: エウリピデスでは、アガウエは息子の首を「若い獅子」の首と思い込み、テュルソスの先に刺してキタイロン山から持ち帰る。オウィディウスでは、アガウエは姉妹に「われらの畑をうろつくあの大猪を打て」と叫んで襲いかかる。アポロドーロスは、単に獣と思ったとする。
エウリピデス『バッコスの信女』 前405年上演、オウィディウス『変身物語』 8年頃、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃

Πενθεύς人間
ペンテウスが母と、その姉妹たちに引き裂かれる場面。アントニオ・テンペスタの作。 『ペンテウスの死(母と姉妹たちに引き裂かれるペンテウス)、オウィディウス『変身物語』の挿絵 第30図』 アントニオ・テンペスタ 1606年 メトロポリタン美術館Public Domain (The Met Open Access, CC0)
ギリシャ語で「悲しみ」「嘆き」を意味する言葉がある。その言葉にそっくりな名を持った若い王がいた。エウリピデスの悲劇『バッコスの信女たち』でも、その名は不運の予告として口にされる。テバイの王ペンテウスである。
では、この若い王がなぜ母の手にかかって死ぬことになったのか、たどってみよう。
ペンテウスは、テバイの町を開いた老王カドモスから、王の位を譲られた孫だった。母は、カドモスの娘アガウエ。そのころテバイに、一人の異国の若者がやって来る。実は神ディオニュソスで、ペンテウスとはいとこにあたる。神の母と、ペンテウスの母は、姉妹だった。
町の女たちは家を捨てて町の外の山に入り、新しい神をたたえて踊り狂っていた。旅から戻ったペンテウスは激怒する。祖父カドモスと盲目の予言者までが、神の祭りの衣装を着て山へ向かおうとしていた。予言者は、新しい神を受け入れよと諭した。祖父は、同じ山で自分の猟犬に食い殺された、もう一人の孫の最期を持ち出していさめた。若い王は、どちらも聞き入れなかった。
ペンテウスは異国の若者を捕らえ、髪を切り、馬小屋に閉じ込めた。けれども、縛ったつもりの相手は、実は一頭の牡牛だった。やがて館は揺れ、火が燃え上がり、若者は何事もなかったかのように外に出てくる。
山から来た牛飼いは、女たちが素手で牛を引き裂くのを見たと報告した。ペンテウスはますます武力で押さえつけようとする。そこへ若者がささやいた。女たちの様子を、自分の目で見てみたくはないか。
王の心は、少しずつ神に乗っ取られていった。見つからないよう女の服を着て、長い髪をかぶり、神の杖を手に持った。町を歩く王は、太陽が二つ、テバイの町が二つに見えると言い、道案内の若者の頭に牛の角が生えて見えると口にした。
山に着くと、神は一本の高い樅の木をたわめ、王をその梢に座らせてから、ゆっくりと元に戻した。高い木の上の王は、女たちからまる見えだった。どこからか声が響く。女たちよ、お前たちとわたしを笑いものにした男を連れてきた。
女たちは木を引き倒した。先頭に立ったのは、母アガウエだった。ペンテウスは髪の紐を外して顔を見せ、母上、わたしです、と頼んだ。けれども狂った母の目に、息子は獣にしか見えなかった。
この物語の出典: エウリピデス『バッコスの信女』、オウィディウス『変身物語』、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』
母には何に見えたか: エウリピデスでは、アガウエは息子の首を「若い獅子」の首と思い込み、テュルソスの先に刺してキタイロン山から持ち帰る。オウィディウスでは、アガウエは姉妹に「われらの畑をうろつくあの大猪を打て」と叫んで襲いかかる。アポロドーロスは、単に獣と思ったとする。
エウリピデス『バッコスの信女』 前405年上演、オウィディウス『変身物語』 8年頃、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
オウィディウスの形: ペンテウスは予言者テイレシアスをあざけり、捕らえた神の従者アコイテスの長い話(神を売ろうとした海賊たちがイルカに変えられた話)にも耳を貸さない。自らキタイロン山に向かい、儀式を見ているところを最初に母に見つかり、叔母アウトノエとイノに両腕をもがれる。「アクタイオンの影に心を動かして」と叔母に叫ぶが、狂ったアウトノエにはアクタイオンが誰かも分からない。
オウィディウス『変身物語』 8年頃
ホメロスとヘシオドスにはペンテウスの名が無い。ヘシオドス『神統記』はカドモスとハルモニアの娘としてアガウエの名を挙げるが、その子には触れない。現存する作品で筋が確かめられる最古のものは、エウリピデスの『バッコスの信女』(前405年上演)。それより前にアイスキュロスが、デルポイの巫女の口を借りて「バッコスの女たちを率いた神が、ペンテウスに兎のような死を縫い上げた」と、すでに知られた話として触れている。
ヘシオドス『神統記』 前700年頃、アイスキュロス『オレステイア三部作(アガメムノン・供養する女たち・慈しみの女神たち)』 前458年、エウリピデス『バッコスの信女』 前405年上演
名前が運命を示す: 『バッコスの信女』で、テイレシアスはカドモスに「ペンテウスがあなたの家に悲嘆(penthos)を持ち込まぬよう気をつけよ」と言い、ディオニュソスも名乗ったペンテウスに「その名は不運にふさわしい」と返す。名前そのものが悲劇の予告として使われている。
エウリピデス『バッコスの信女』 前405年上演
エウリピデスの形: 若い王ペンテウスは、町の女たちが山で狂乱の祭儀をしていると聞いて怒り、人間の姿をした「リュディアから来た異国人」(実はディオニュソス)を捕らえる。しかし神にそそのかされて、女装して祭儀を覗き見に行き、神が引き下ろした高い木の上にいるところを見つけられる。先頭に立って襲ったのは母アガウエで、彼が頭の紐を外して「母上、私です」と頼んでも聞き入れられず、腕を引きちぎられた。
エウリピデス『バッコスの信女』 前405年上演
いとこ同士の悲劇: ペンテウスとディオニュソスは、共にカドモスの孫で、母同士(アガウエとセメレ)が姉妹のいとこにあたる。同じくカドモスの孫でアウトノエの子のアクタイオンも、キタイロン山で自分の猟犬に引き裂かれて死んでおり、『バッコスの信女』のカドモスは、その死を引き合いに出してペンテウスを諫める。
エウリピデス『バッコスの信女』 前405年上演、アポロドーロス(偽アポロドーロス)『ビブリオテーケー(ギリシア神話)』 1〜2世紀頃
ペンテウスは捕らえた異国の若者(ディオニュソス)を馬小屋に閉じ込めて縛ろうとするが、実際に縛ったのは牡牛だった。
エウリピデス『バッコスの信女』 前405年上演
女装して町を出るペンテウスは、太陽が二つ、テバイが二つに見えると言い、案内する若者に牛の角が生えて見えると口にする。
エウリピデス『バッコスの信女』 前405年上演
娘アガウエの子。3.4.2, 3.5.2